葡萄 ~イリヤさんのシュールな一日~
二十年程前、内海の東のとある小島の女王が、跡継ぎを決めぬ儘亡くなつた時、女王には二人の娘と一人の息子があつた。およそ内海の国では、地位と云ふ物は母から長女に譲られるのが習はしだつたので、同じ内海の国であるカトリルイシス国 kAtoriruixis は、三人の子の内の長女を支持し、次女の起した乱を鎮める為、兵士の一団を此の島に送つた。此を良しとしなかつたのが、東方世界の東の果て、外洋の島々を統べる大国、タールアカナ国 tAruakana だつた。外洋の国々では、内海と異なり、地位は父から長男に譲られるのだ。 カトリルイシス国とタールアカナ国との争ひは、直ぐに決着が付く物と思はれたが、いつしかこの戦は島を離れて拡大し、東方世界の三分の二を巻き込む大戦争に発展してゐた。
イリア hAmyurufaria Iria は、この戦争の半ば頃に、北辺民族の読星師の娘として生を享けた。七歳の頃、タールアカナ国の軍が北辺民族の都市群を攻撃した時、イリアは両親と故郷を失つたが、後からやつて来たカトリルイシス国の従軍神官団に拾われ、神官見習ひとして働く事になつた。 以来、五年の月日が流れた――
細い窓の隙間から、日の光が差し込んでゐた。
昼前の朗らかな陽光が、目蓋を透過しても感じられる。
下四位読星官・イリアは、一旦は布団の中に潜り込んで光をやり過ごさうとしたものゝ、思ひ直して寝床から這ひ出した。部屋の壁には複雑な目盛が刻まれてゐて、細い窓から入つた光が当たる場所によつて、時刻が解る様になつてゐる。
今は二十刻頃かしら――イリアは横目で目盛を読みながら寝間着を脱いだ。
寝台が日光に曝される位置にある所為で、イリアは本来定められた起床時刻よりも早めに起きるのが常であつた。今日も五刻ほど早く起きた様だ。
「お早う。イリア。」隣の寝台の布団の中から声がした。
「お早う御座います。先輩。」
上四位読星官・スヮティアの事を、イリアは「先輩」とだけ呼ぶ。
「すゎ」「とゎ」「すゅ」等の、カトリルイシス国独特の音節を、まだ正確に発音出来ないからだ。スヮティアの方では、その事を特に気にしてはゐなかつた。読星官仲間で彼女の名を正しく発音出来ない人は、イリアの他にも幾人もゐたのだ。
イリアは、壁に掛けてあつた白い神官服を手に取り、少し塵を払つてから身に纏つた。
「今日も手伝ひ?」スヮティアが布団に潜つたまゝ尋ねた。
「えゝ。」イリアは、葦ペンや算盤等、必要な物を一通り巾着に仕舞ふと、それを腰紐に括り付けた。「先輩に追付きたいんです。」
「熱心で宜しい。」
「どうも……ぢや、また昼食の時に。」
「行つてらつしやい。」
スヮティアは、布団の中で呟いた。「もう追抜いてるわよ。」
イリアがカトリルイシス国に来た当時、この国は東方世界で最も天文学が進んだ国だつた。
カトリルイシスの国都は、ジャカーノルアハト jAkano ru Ahato・鼎月の都と呼ばれ、カトリルイシスに服属する諸邦は元より、東方世界のあらゆる国々の人々が集つてゐた。読星官・読星師を志す者、遙かなる遠国から訪れる商人、精巧な天測儀や鋭利な薙刀を拵へる職人達、果ては、預言だの啓示だのと言つては虚辞空言を並べる異教の僧共。中でも重要なのが、暦表や星表を求めてやつてくる人々だ。ジャカーノルアハトの読星官団が編纂し、白月の大神官の印を捺された暦表は、東方世界で最も正確で権威ある暦として知れ渡つてゐた。この暦表を書写し、販売する事も、読星官の重要な仕事の一つだつた。 イリアはまづ水汲み場で、手、口、顔、髪を清めた。この水汲み場の水は、ジャカーノルアハトを遠く離れた山々から、高度な建築技術を駆使した水道橋を通つて運ばれた物だ。カトリルイシス国の多くの都市には、上下水道が整備されていた。これ程インフラ整備に気を遣ふ国は、東方世界に類を見ない。
書写院は、水汲み場の直ぐ近くだ。イリアが中に入ると、既に多くの神官達が、各々の机で作業に就いてゐた。殆どの神官は、イリアと違ひ、黒い神官服を着てゐる。黒服は、黒月の大神官の指揮下にある事を表す。法学や文法学、国政に関する事務に携る神官が、これにあたる。黒服なら、インクが多少跳ねても気にならないと云ふ、実用的理由も一応ある。
「おゝ、今日も御苦労様。」書写院の長は、イリアを見掛けると、傍らの箱の中からごはゝゝした紙を何枚か取出した。
「はい。今日の君の担当分だ。今年の冬版の大神官暦表、月の章の十三頁から。」差出された紙束と原稿を、イリアは丁寧に受取つた。
「有難う御座います。」イリアは空いた机を見付けると、紙と原稿と筆記具を広げた。直ぐに奥の方から校閲役の神官が現れた。書写の際は、幾人かに一人の割合で校閲役が付き、一枚書き上がる度に誤記が無いか確認するのが決まりだ。
「宜しく御願ひします。」と、イリア。
「どうも。」校閲役は会釈を返した。
イリアは早速書写に取掛かつた。暦表と云ふ物は、素人が見ると只の数字の羅列にしか見えない。だが、ある程度天文学の知識がある人間であれば、この数字の中に、明瞭な天上の法則を見出すことが出来るであらう。イリアが写してゐるのは、この惑星を廻る三つの月の時間ごとの位置をひたすら列挙した数表だ。イリアの頭の中では、三つの月が規則的に天球上を滑つて行く様子がはつきりと描き出されてゐた。
律法や歷史に就いて書かれた長い文章に比べて、天文数値の書写では、誤記や校閲漏れが起こり易い。隣でイリアの書いた写本を校閲してゐる青年も、普段より校閲に時間を掛けてゐる様だつた。イリアの方は、本業が読星官であるから、数値に関しては他の部署の神官達より扱ひ慣れてゐる。さうは謂へども、イリアの書写の正確さは、同じ歳の書記官見習ひ達を遥かに超えてゐた。
私はもしかすると、読星官よりも書記官に向いてゐるのかもしれないわね――イリアは一瞬さう思つた。しかし、この仕事は飽くまで手伝ひ、副業なのだ。イリアはまだ十二歳だから、専攻を変へようと思へば変へられない事も無いのだが、イリア自身、今の仕事には充分満足してゐた。特に転職する理由もなかつた。
イリアは最後の一枚を写し終へ校閲役に手渡した。彼は、出来上がつた写本をしげゝゞと眺めた。
「これだけ書いて書き損じ無しなんて。かう云ふのを才能って云ふのかしら。」校閲役は独りごちる様に言つた。
「速い、巧い、間違はない、三拍子揃つた読星官見習ひがゐるつて、書記官寮で噂になつてるわよ。どう? 今からでも書記官を目指してみない?」
イリアは困つてしまつた。他の部門への転向は、たまにふと思つた事はあつても、真剣に考へた事等無かつたし、面と向かつて勧められるのも初めての事だつた。
「えつと、その……。」
その時、二十七刻を知らせる鐘が鳴るのが聞こえた。
「す、済みません! 私、その、時間なので。」
イリアは慌ててペンを巾着に突つ込むと、校閲役に一礼して、小走りに書写院を後にした。
観測を担当する読星官団は、夜の前半を受け持つ集団と、後半を受け持つ集団に分かれてゐた。両方が同時に起きてゐる、正午直前と日付変更の直前には、それゞゝの観測内容の報告の儀が行はれる。特に正午直前のそれは、全神官の長にして、カトリルイシス国の統治者でもある三人の大神官が参加する事になつていた。
イリアが、鼎月の神殿に入つた時、既に殆どの読星官は定位置に着いた所だつた。正面には、三体の巨大な女神像があり、こちらを見下ろしてゐて、それゞゝの像の前には、大神官のための座が設へられている。しばらくして、白い神官服を纏つた白月の大神官と、黒い神官服を纏つた黒月の大神官が、その座に着いた。赤月の大神官は、軍事を担当すると云ふ役職上、参加しない事の方が多かつた。
読星官の代表が、前に進み出て報告を読み上げ始めた。報告の儀は、飽くまで報告に過ぎない。おそらく都で行はれるどの儀式よりもずつと簡素な物であらう。惑星の位置、月の満ち欠け等は、天文計算によつて何年も前から解る事なので、報告内容の殆どは、天体の実際の位置と計算上の位置がずれてゐなかつた事、である。
「報告。今年初めて、恒星シュステルが観測されました。」
恒星シュステルが夜明け直前に昇る頃は、葡萄 rEppet の旬であると言はれてゐる事を、イリアは思ひ出した。一旦想像すると、どうにも食べたくなつてくる。結局儀式が終るまでの間、イリアは葡萄の事ばかり考へてゐた。 儀式が終ると、読星官は読星官寮に戻つて「昼食」を摂る。もつとも、半数にとつては朝食であり、残りにとつては夕食なのだが。
カトリルイシスの主食は、米に似てゐるものゝ、米より粒がかなり大きい。これを炊いて、御握りを作る。
寮の食堂では、スヮティアがイリアを待つてゐた。
今日の昼食は御握りと根菜の煮物だつた。根菜の煮物は美味しかつたが、イリアの頭の中はすつかり葡萄になつてゐた。
「先輩、ふと思つたんですけど、今日市場に葡萄を買ひに行きませんか?」
スヮティアは危ふく食べてゐた御握りを取り落しさうになった。
「私の考へてる事を読んだの?」
「まさか。たゞ、シュステルの事を聞いたら、何となく思ひ出してしまつたんです。」
「私も同じ事考へてたわ。」
昼食を食べ終へた後、イリアとスヮティアは連れ立つて西の市場に出掛けた。ジャカーノルアハトは、それほど大きな都市ではない。元々、天体を観測する事を第一に考へて造られた都市なので、交通の便はあまり良くないのだ。
市場に着くと、葡萄は簡単に見付かつた。
葡萄の他に無花果や石榴もあつたが、今日は葡萄ばかりが売れてゐる様に見えた。 イリアは巾着の中から銅貨の袋を取り出した。
「をぢさん、葡萄二房くださいな。」
「おやゝゝ。お二人さん、さては読星官だね。」果物売りの老人が言つた。「ついさつきも、読星官が葡萄を買つて行つたよ。君らで何人目になるかの。」
「そんなに来たんですか?」イリアは老人に尋ねた。
「あゝ。大体予想はついとるよ。シュステルが昇つたんぢやろ。もう毎年恒例の事ぢやからの。」
老人は葡萄を二房取つて、イリアに手渡した。
さういへば、去年も同じ事で驚いた気がするわね――イリアはそのことに気付くと、何だか妙に恥づかしい気分になつた。
読星官寮に戻ると案の定、みんな葡萄を食べてゐた。
「私は葡萄の香りをかぐ度に、今日の事を思ひ出すのかしらね。」みんなの食卓の上にずらりと並んだ葡萄を眺めながら、イリアは独りごちた。
「何の事を?」横で葡萄を食べてゐたスヮティアが尋ねた。
「うーん……何でもない。」
イリアも、買つてきた葡萄を一粒つまんで、食べた。葡萄はよく熟れて甘く、良い香りがした。
少しづゝ食べたい所だが、さうも行かない。今日もまた、天体観測の時間が近づいてゐるのだ。
イリアは、葡萄を半分取つて置く事にした。星を見ながら食べる葡萄と云ふのも、悪く無いだらう。
ちなみにその翌年、イリアはまた同じ事で驚き、また同じ事で恥づかしい思ひをする事になるのだが、それはまた別の話。